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『未必の故意』(みひつのこい)は、安部公房の書き下ろし戯曲。11景から成る。ある小島の消防団長が、団員や島民たちと計画的に行なったヤクザ者の殺害を「未必の故意」に見せかけようとする物語。団長を中心に島民たちの模擬裁判が行われる過程で、事件の状況や島の人間関係が浮かび上がるという劇中劇の中、被害者同様、島を我がものにしようとする団長の意図が次第に明らかとなると共に、孤独の恐怖が一種の連帯の幻想や狂気を生み、「他者」を紡ぎ出すという共同体の論理の矛盾を描いている〔安部公房「安部公房が話題作二つ――談話記事」(共同通信 1971年9月14日号に掲載)〕〔安部公房「『未必の故意』の安部公房氏――談話記事」(日本海新聞 1971年9月15日号に掲載)〕〔高橋信良「劇中劇――安部公房の演劇論 III」(千葉大学外国語センター言語文化論叢、2002年12月)〕。姫島村リンチ殺人事件を素材とした作品である〔「作品ノート23」(『安部公房全集23 1970.02-1973.03』)(新潮社、1999年)〕。 1971年(昭和46年)9月10日、新潮社より単行本刊行され、同年同日に井川比佐志主演により俳優座劇場で初演された。1972年(昭和47年)に第22回芸術選奨文部大臣賞を受賞した〔。翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:Involuntary Homicide)で行われている。 == 作品成立・主題 == 『未必の故意』は、テレビドラマ『目撃者』(1964年)を戯曲化したものである〔。『未必の故意』『目撃者』は姫島村リンチ殺人事件を素材としている〔。 安部公房は『未必の故意』の主題について、「孤独の恐怖というものが一種の連帯の幻想をつむぎ出していって“他者”というものをつむぎ出していく、したがって共同体というものは、内的な孤独の投影としてつむがれていくわけだ」とし〔、ラストシーンに消防団長という人間の、「むき出しの孤独の姿」を描いたと述べている〔。安部は、「そこまではブレヒト流の客観的な手法で進行してきたものが、最後のカタストロフィーで、ギリシャ悲劇風の内的な進行に変るようにしたんです」と説明している〔。 また安部は、俳優が「演じる島民」を演じるという構造について、「今度の芝居はある意味では本格的素人芝居ですよ、要するに、役者がやるのではなくて素人が一つの演劇的な構築を作らざるを得なくなっているわけでしょう。だから、そういう現実の場で一つの演劇が作られてゆくプロセスを俳優がやって見せるということでもあるんだよ。だから、これは〈演劇とは何か〉という主題でもあるんだよ」と述べ〔安部公房(井川比佐志との対談)「作家と俳優の出会い」(「未必の故意」上演パンフレット 1971年9月10日)〕、それは「極端に言えば、二重に演劇を演じなければいけないということ」で、俳優がそれを「生理的」に把握しなければならず、「自分自身をつかまえると同時に、完全に自分でない反自己というか、自分から完全に離れたものとを同時に把握しないとあのリアリティが出ない」とし、俳優の演技の二重構造について解説している〔。そして作中の〈裁判ごっこ〉(模擬裁判)を通じて、俳優が「演ずるとは何かを演ずる」という劇中劇のその手法について、以下のように解説している。 なお、京都労演の際に、登場人物の呼称について身体障害者関係者から抗議文が寄せられた。それに対して、演出の千田是也は1972年(昭和47年)4月、「京都労演」誌上で、『「人間を忘れた未必の故意」におこたえ』と題して答えている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「未必の故意 (戯曲)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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